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 紅葉
10月も10日を過ぎる頃から、北海道をかわきりに紅葉の便りがテレビに映し出される。
急速に本格的秋のおとずれとなる。紅葉の時期になると、いまでも鮮やかな記憶となって甦るのは京都嵯峨野の祇王寺である。
1966年11月23日、写真で見た祇王寺の紅葉を見たくて、仕事が終わると新幹線に飛び乗り京都を目指したものである。平家物語にある平清盛に愛された白拍子祇王、そして悲恋の後に祇王は出家し、嵯峨の庵に住まいした寺として有名で、紅葉の美しさに加えて、祇王という響きがたまらなく、どんなに美しい女性かを想像し、一度訪れてみたい衝動にかられたものだ。
その物語にふさわしい、寺というよりモミジに囲まれたたたずまいは、庵と呼ぶにぴったりである。茅葺屋根に、真っ赤な衣が被いかぶさり、朝の陽を受け、ルビーの如く輝き、より赤く、赤が又赤に溶け込む様は、かの情熱の恋の行く先を暗示しているかのようである。
悠久の時にしばし身をまかせたものである。


あれから紅葉の嵯峨野を訪れることなく、三十余年経ち、いまは山形に仕事をするようになった。そして時間の許す限り山々の自然を、探索するようになった。しかしながら10余年山形に通っていながら、秋の紅葉の時期を過ごしたのはつい最近のことである。客を案内し月山を訪れた折、全山まさに山が燃え立つのを目の当たりにした時、感動の為か、自然に対する畏敬の念か、とにかく息を呑み、魂も肉体も震えたものである。


学生時代、京都の名のある多くの庭園や、古刹の庭園を巡り歩いた事があり、日本人の自然に対する畏敬の念を庭園の形にしたもので、小さな空間に大海を表現した哲学的庭園や、写景の手法で自然を我が庭に取り入れたり、四季の変化を憎いほどに計算し、未来に訪れるであろう人の心までも計算しつくされた庭、即ち調和され、演出され造られた芸術の極致に魅せられたものである。
これとはまったく異なるのは深き山々の自然。そこには何の演出もなく、自由奔放な世界。まさに宇宙の雄大な一部なのである。そこにある木々がそれぞれ個性を発揮し、それぞれが己の美を競っているのが、綾錦となるのである。真っ赤に燃え立つ、イロハモミジに代表するモミジ類、ナナカマド、ヤマブドウ、ヌルデ、ウルシ、ドウダン、ニシキギ等、これ等が一斉に紅葉となる様はあたかも全山燃え上がったようである。しかも朝、昼、夕と光の加減で輝いたり、燃え尽きるような色へと変化する様は筆舌に尽くしがたくエロチィックさ或いは凄絶さを感じさせる。
月山のブナ林は黄色く色づき、あたり一面秋の陽というより黄金に輝く春の曙のようである。そんなブナの林に足を踏み入れれば暖かい陽光を感じ、荘厳さ、いや幻想的でさえある。
黄金の間に所々ナナカマドやカエデ、ヤマブドウの赤が幾重にも重なり合う情景は正に錦織成すとはこのことなのかと体感するのである。そこにはただため息あるのみ。
しばしの興奮と感動に酔いしれるのである。


紅葉狩りという言葉があるが、紅葉の下でお花見のごとく酒盛りをしたと言う事をついぞ聞いた事はない。むしろ、何処ぞかの山の宿で、じっくりと静かに自然と対峙し、杯を傾けるのがふさわしく、これこそ至福の秋なのであろう。


この紅葉も桜も同じにぱっと燃え上がり、そして一週間位で燃え尽き、寒々とした景色となるのである。之を見て人生を語るのはよそうと思うばかり。


色即是空・・・・・



会長の独り言(その十八)
                          閑話休題