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  国境線

3月にタイに調査に行ってきました。今回、調査のポイントはミャンマーとの国境、北部のチェンマイ県、チェンライ県を中心の蝶紀行です。
チェンライの北、ミャンマーに近いドイ・メーサロンを拠点にしました。この地は、50年以上前に、毛沢東の中国共産党軍と蒋介石の国民党との戦いに敗れ、中国から逃れてきた段将軍に率いられた軍が、此処を拠点に定住し、戦略を展開したところです。中国へは100キロも離れていない地点です。標高1350m〜1400mの山の懐に有り、山腹や山稜をぬって道路が造られており、その道路に面したところに細長い街があります。山の中のわりには、立派な街造りであり、街には7イレブンがあったり、観光に必要な公的施設もあり、教会も立派なワットもありで、観光地としても賑わっています。街の看板は中国語(漢字)とタイ語が併記されており、タイにいることを忘れます。それほど此処は中国人が多く、本来この地に多い、アカ族やカレン族と共存しておりますが、此処は中国の様です。しかし我々が泊まったホテルの従業員は明らかに中国人の顔であるが、まったく中国語は話せず、タイ語だけで、いまや、戦後は遠い過去のものとなっている様です。
この街では茶やコーヒーを栽培しており、特に高地の茶は高級品で台湾にも輸出されており、3倍以上の高値で取引されている様です。お土産屋には、中国茶はもとより、お茶のセットが売られております。本来はこの地はゴールデン三角地点と並び、麻薬の密貿易が盛んであったのが、今や山の頂から急斜面をものともせず、周辺は全て伐採されており、茶畑や、コーヒー畑、果樹畑であってりしております。なにか全体として緑少なく殺風景です。しかし、この伐採は何も畑の為ばかりでなく、かつて、軍事的にも見通しのきくように、伐採された名残であると、何かの本で読んだ記憶にあります。ここの武装解除は1988年――日本ではバブルの時代――で20年前は、緊張した戦時体制にあったことを考えると、うなずける一面です。
此処からさらにゴールデン三角地点に近いドイトンのミャンマーとの国境線がある地点を訪れました。
標高1200mの尾根に沿って、国境線が高さ2m位の竹の貧弱な塀が造られており、その内側に塹壕が長くほられており、土嚢が積まれております。何十メートルごとに、トーチカが造られております。此処が国境かとさわってみました。日本のように国境線は、地図上のことで、実際目に見える形や、触れる国境線を持たない日本人は、国境の概念の希薄な民族になったのです。しかし殆んどの国々は、歴史的に国境線を巡り、取ったり取られたりの小さな紛争や、侵略の脅威に絶えずさらされた歴史があり、現在でも、イスラエルやインド・パキスタンのカシミール地方では、はてしない国境紛争が続いており、枚挙にいとまがないくらいです。
島国であるお陰をもって、異国からの侵略を経験したことのないのが、幸いしてか、お人好しの独特の国民性を醸成してきた爲なのか、中国との海底資源を巡る紛争は大変な国際問題であるようですが、多くの国民は、どこか遠い国の出来事のような感覚にあるのではないでしょうか。竹島問題も韓国側の国民の騒ぎようと比較すると、又然りです。「土一升、金一升」と敏感な国民なのにもっとスケールの大きな国際問題にはサッパリであるのは、誇って良いものか、憂うるべきかそれが問題だ!


一段高いところに、兵舎があります。国境の有る稜線は枯れた芝が続き、見通しが良い。
野花にヒョウモンチョウが吸蜜に来ている。昔見た「西部戦線異状なし」の映画の最後の場面が頭の隅に蘇り、思わずネットを引っ込めました。平和ボケの我は複雑な思いをしたものです。平和の国でよかった。


この国境線を見つけるにつけ、EUの統合は国境をなくした、勇気有る人類の大いなる実験場である事に、改めて感動するのです。


2400年前、孟子様は「春秋に義戦無し(春秋時代に正義の戦争はなかった)」と申しております。毎年ある戦争は、全て、自国の利益を拡大する為の兼併戦争だったと言います。
かつてのあらゆる戦争がそうであったように、我国に正義がなかったとすれば、相手にもない、相手に正義があったとすれば我国にもあった、と言うことがバランス感覚であると、孟子様は何時に時代にも当てはまる、名言を残してるのです。


平和のありがたさを、実感した、国境線の旅でした。


会長の独り言(その二十五)
                          閑話休題