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 虫の目

虫採りにはまってもう50年以上になる。子供の時、少年の時、大人になった時、そして還暦をとっくに過ぎたいま、精神年齢は未だに著しい進歩が見られない昆虫少年のまま。
少しは変わったのは日本の蝶はとりあえず卒業し、外国で採るようになった事と、がつがつしなくなった事位。このがつがつしなくなった事と意欲がなくなったこととは違う、生殖能力が落ちても、女性をこよなく愛おしいと感じることと同じ位であるだけである。
採集への飽くなき執念は、殺気となってしまうが、この執念が薄れると、いわゆるがつがつしなくなり殺気を殺すと言うより、殺気がなくなっていくようである。蝶もこちらがネットを持っていない時に限って現れ、優雅に飛び回っており、採集チャンスを逸することは年中である。親しくしている虫屋   我々の様な虫の蒐集家をこう呼び、虫を売って商売している人は虫屋と呼ばず、昆虫標本商と言う。   の大先輩の方は、蝶が向こうからよってくる虫に好かれている人が居る。この人はまったく殺気を感じさせない人なのでありましょう。どんなに珍品の蝶でも向こうからやってくるようで、ここまで自然と仲良くなれる氏にただ感心するばかり。
小生などまだその域に達していないが何処に蝶がいるかは判るようになったくらいである。ただ、不思議と蝶は見逃さない、これを「蝶目」という。いや蝶ばかり見ているので他の物が目に入らないだけの事なのである。お陰で怖いキングコブラの様な毒蛇も目に入らなかったし、窪地も目に入らず足をひねった程度であったし、水牛のテリトリーに入り込んで追いかけられた程度で済んだし??
だからといって採る名人とはいささか違う。飯を食っている時ハエがおかずにたかってくるのを、ハエたたきをさあ来いと構えると、きまってやってこない。殺気がぎらぎらしていたらハエだって近づけないわけである。蝶だって同じ。宮本武蔵はとっさに箸で飛んでるハエをつまんだなどといわれているが此処まで来るともはや名人。吸水にきている蝶をじっとみて、たまには指でつまめる時は同じ殺気を消しているのであろう。
うまく採るには石になりきるか、木立になれるかそこまでなれればネットなどいらないのであろう。そうもいかないのでそこに悲喜こもごもがあるのであり、昆虫採集の醍醐味なのである。蝶によってはアオスジアゲハのようなグラフュウムの仲間は緑の色にあつまるし、カラスアゲハのようなパピリオ類は赤い色にあつまるというように、好き嫌いがあり、従い赤や緑、或いは青のネットをそろえる必要があり、それを並べて立てかけようものなら、さしずめ運動会である。またとっかえひっかえ代えてルアーで魚を釣る如しである。このだましあいも採集の面白さなのである。ところで、虫採りも、魚釣りと女を釣る事と、どこが違っているのかそこの色男に聞きたいものだ。
カミキリを集めている虫屋は蝶は目に入らないがカミキリなら良く目に入る「カミキリ目」。ところが虫友のM氏は何でも虫なら目に入る「なんでも虫目」のようで、彼にあったら、蝶、カミキリやコガネムシの甲虫類もとより、ガ、トンボ、セミ、ハチ、アリやゴキブリに至るまでなんでもござれ。本当に虫好きで虫にとっては虫ずが走る天敵なのである。多分彼の目は複眼になっているばかりでなく、単眼まで備えているのではないかと思う位である。

小生などは今や、レスポンスが遅くなり   早い話にぶくなった   、先ず虫が目に入る、何の虫かじっと見る、行動を監視し、チャンスを待つ、この間でどんどん殺気が増幅し、気がついたら逃げられた、てな事ばかり。虫が目に入った瞬間、行動に移れなくなったのは「落ち目」なのか、いや単に老人になっただけか。いつも悔しくて逃げられた夢ばかりを見たり、M氏が採れてなんで自分は採れないのかと眠れなくなるなんざ、まだまだ煩悩の塊で武蔵になるまでに程遠い。

8月の山のタイのリゾートホテルにて、ベットでうとうとしていたら大きな羽音がし、きこえなくなったと思ったら、なにやら頭の上でもぞもぞ動くものあり、つまんでみると日本のやつの倍以上でかい、「ギャー・・・・・」・・・・・ゴ・キ・ブ・リ。

会長の独り言(その二十七)
                          閑話休題