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古池や かわず飛び込む 水の音


今年もまもなく蛙の季節がやってくる。小生が悪がきのころ、郊外の武蔵野は、かたかた田舎で、緑豊かで畑や水田がまだまだ多かった時代である。こんな時代の少年たちの遊びときたら、トンボ釣りや、カブトムシ採りなど、自然の中で遊びを見つけたものである。
水溜りにはヒキガエルの卵が見られ、それを採ってきて孵化させ、何十匹のオタマジャクシ、そして蛙になるまで育て、母親の心胆を寒がらせたものである。時には畑や、水田の周りでみつけた小さな愛らしい緑のアマガエルをペット代わりにして遊んだ事は、今はおつむの黒髪が懐かしい年齢の、昔悪がきの皆様も懐かしい記憶となっておる事でありましょう。そして決まってやった事はかの蛙君のお尻の穴に、わらの細いのをさして風船を膨らませる如く息を入れ、お腹が大きくなったのを池に泳がせた事がある。このいたずらは、子供の頃の遊びの友人達の共通した思い出であり、誰に教えられた物でもなく、単に興味からの仕儀であったのだが、してみるとフロイド的にいえば「♂の生殖本能の芽生」であり、あの時が正に発芽であったのであろうといまさらながら気が付くのである。
ところで、その蛙君がその後、空気を原動力としてジェット噴射で泳いだとか、ぴょんと跳ねた瞬間空に舞い上がった等という記憶もなく、どうなったかは記憶が定かではないですが。
今思えば蛙君には大層迷惑をかけたものである。しかし彼の田舎町も大都会となった現在、アマガエルをなかなか見ることも出来なくなった。実家の庭には主となっていると思われるいわゆるガマガエルが冬眠に目覚め姿を現そうものなら再会を喜んだものである。その彼も最近は姿を消した。

「蛙が鳴くからかーえろ。」の歌がこれまた子供の頃のノスタルジイとなり懐かしいのである。

それにしてもあの蛙の鳴き声はさまざまで童謡に有るように、本当に「クッワ・クッワ・ケケ・ケケ・ケケ クッワ・クッワ・クッワ」と鳴いているし、カジカガエルのように「キュル・キュル」とテノールで美しく鳴く種類もいるが、ウシガエルのように「ワーン・ワーン」とバスで低い声でお腹に響く、本当に牛が鳴いているようなのもいる。
タイのカオヤイ国立公園に行ったときは、山の中で、静寂につつまれた夜暗くなってから深夜まで「ワン・ワン」とバリトンで間断ない鳴き声に「うるさい犬ね、寝られやしない!」と怒って追い払いに外に出ると、にわの池にその鳴き声の正体を発見、なんと蛙であったことに正にひっくりカエルおもいであった。きっとこの蛙はイヌガエルというのではないかと勝手に思っております。
この歌声は恋の歌で、彼女を得んが爲の、けなげで必死さの歌声である。そんなこととは存じませず「うるさい」等と言った事をお許し下さい。

もう一つの思い出に「タドリ」というのがある。40年もの昔、初めて中国へ出張した折、中国で育った相棒が「カエルを食べようか、旨いぞ。」と言うのに「気持ち悪い、食いたくない。」「ではタドリはどうか。」「タドリってなに?」「田んぼに居る鳥だよ。」。小生としては小さなシギのような水鳥類を想像して、「では、それでいこうか。」とそれを頼んだ。から揚げにした5cm位の骨付きの物がでてきた、鳥の腿の様だ。「どうだ?」と相棒「うん、柔らかく、なかなかいける。」、肉は鶏のささみのようで、やわらかく、さっぱりして、飽きのこない旨さだが、ふと気が付くと、妙に骨との肉離れが良く、その骨を眺めてみると、何か懐かしい記憶が蘇った。あの蛙君の脚の骨に似ているではないか、「もしかして、これってカエル??」「分かった。」と済まして答える相棒。「タドリっていったじゃない。」「田んぼに居る鳥、中国ではカエルのこと田鶏とかくのさ。」豚足も、豚の耳や小袋も大好きな小生は、むしろ新しい経験に慶び、だまされた事に慶び、どんどん箸がすすんだものである。本当にカエルを「タドリ」と言うものと、いまだに信じている。
そうして、今度は小生が同じように、タイで相棒に「タドリのから揚げ食べようや。」と同じようにあのときの驚きを再現しているのです。ケッケ・ケッケ・・・


それにしてもカオヤイの闇夜を焦がすあの鳴き声、彼女に気に入られましたか、イヌガエル?君。


蛙の歌を小学校で復活して、少しでも子供たちが自然に興味をもってもらいたいものであると、蛙君に代わって祈念申し上げます。

会長の独り言(その二十八)
                          閑話休題