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  再びAngkor その2   Bateay Sreii


ホテルから、Watの前を通り、北へ車で1時間の行程である。 道は地方都市への幹線道路で舗装されてはいるが平らではない。 周りが水田だけの道を行くのかと想像していたら意外と、田舎の街が続く。
マメ科の大木や、ヤシの並木が途切れることなく続く日陰の道で、両側には高床式の農家が連なっており、街道の脇には軒を連ねて店が並んでいる。 中には観光用のお土産やもみられるが、大抵はよく見る田舎の雑貨や、野菜市場、屋台等である。 特にここの特産品なのか竹細工の籠や家具を売っている店が多い。このような並木道が殆んどBanteay Sreiの近くまで続く。 並木の向こう側は水田が広がっている。


畑の向こうに林が見えてきた。 そこがBanteay Sreiである。
駐車場から100m位先が入口。 駐車場までが物売りが許されているのか、少女達がTシャツ等をいっぱい手にし、3枚$10で売っている。 粘り負けで帰りに買うと訳した。


この寺院は967年にラージェンドラヴァルマン2世によって建てられたもので、Angkor Watより250年は旧い。 初期のAngkor王朝の都Phnon Kulenに寧ろ近い。Angkor Watと比べると小さな田舎の小寺院に過ぎないが、第一印象は小さな巨人、工芸品の宝物との印象を強く持った。 建物全体はラテライトが赤い砂岩をベースにした石で作られており、赤みが強く強烈な色彩に圧倒される。 寺院は高さは低く高いものでも5m位であろうか。 しかし全ての建物は、全体にレースのカーテンを上から被せたように、全ての壁、柱に細かい文様が彫られており、その緻密さは今まで見てきたどの遺跡より細密でありミクロの世界。深さも深く、それだけに陰影がはっきりしている。 まさに全建物は職人が造った工芸品の趣で、赤い生地の装飾的色彩にマッチして、ただため息がでる。
おそらく多くの彫刻師、絵師、建築家等が一体となって、自分の人生の集大成に、真摯な宗教心とあいまって、自分の意思で造りあげたとしか思えないほどの、妥協を許さない、自分の納得のいく限りに造り上げた作品に見える。この力あふれ、魂の入った生き生きとした姿が、東洋のモナリザとまで言われる位の、デヴァターを生み出したのである。


この「東洋のモナリザ」は浮き彫りと言うより殆んど一体型の石像で、顔はふっくらと丸顔、ふくよかで若々しく、微笑んだ口元は、唇も豊かで生き生きとして愛情豊かな、優しい女性に見える。
赤い石が一層温かみをましているようである。
楼門や経蔵の入り口の欄間にはシバ神を描き、あるいはヒンズーの説話を甦らせたこの技量と、感性の魅せられ時間が経つのを忘れさせられる。


大体において、古代人には、中国の兵馬俑に見るように、或いは日本の奈良の飛鳥天平時代の仏像群、ローマやギリシャの彫刻・絵画、勿論エジプトの宝物は単に権力の象徴と言うには簡単に片付けられない何かがある。現代のように物が溢れており、打算的な時代と違って、何もなく、機械もなく、物造りは職人の手に頼らざるを得ない時代である。 それだけに各分野は専門化されていたのは間違いない。 当時の為政者の権力としての命令とは別に、一世一代の歴史に残るかもしれない仕事は、金銭の問題ではなく、信仰心の昂揚とプロとしての技術の誇りと意地とが凝縮された仕事になっていたのではないか。 いや、本当は純粋に楽しんだ自由な精神の発露であったのかも知れない。 その証拠に今現代もそのみずみずしさを失わず、見る人をひきつけてやまない。生けるもののような感覚に襲われる。
それぞれ作者の魂が語りかける様に。


この古代人の精神の豊かさを見るにつけ、現代の拝金主義に改めて憂慮せずにいられない。


遠くから見る寺院の姿は、夕日を受け赤く染められているように美しく、また訪れたくなったのである。



入り口で約束したBanteay Sreiの「東洋のモナリザ」のシャツを思い出に買ったのは言うまでもない。




会長の独り言(その三十六)
                           閑話休題