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北日本大震災に思う「想定外」

わが国にとって2011311日は忘れられない日となった。宮城県沖200kmを震源とするマグニチュード9(M9)の地震が発生し、幅55m、長さ160kmにわたってずれが生じた、それに伴う大津波が太平洋側の東北地方から関東までの沿岸500kmに渡って襲った。その実態はテレビの映像で詳細に放映され自然の猛威の前に人類がいかにか弱いかを思い知らされたのである。

日を追うにつれその被害の実態が明らかにされ、犠牲者の数も3万人に迫ろうしている。また沿岸の市町村が壮大な瓦礫の山となり果てた姿を見るにつけただ涙するばかりである。

これに加え福島第一原子力発電所(福島第一原発)が破壊され放射能漏れの不気味な脅威が世界中を震撼させたのである。

津波にしても、原発にしても関係者が口をそろえて言う事は「想定外」という事である。

もしそうであったとしたらその想定が間違っていた、或いは甘かったという事で自然のせいばかりにできぬという事である。百歩ゆずっても「想定外」の規模の地震であったとしても、その災害に対する危機管理のシステムがまったくといっていいほど稚拙であったことは、こちらから言わせれば「こんなにだらしなかったとは、まさに想定外」といわざるを得ないのである。

明治29年、岩手県東方沖200kmを震源とする三陸大地震では、38mに及んだ津波は22,000人の犠牲者をだしたという記録もあるし、1960年には遠く離れたチリ地震による6mの津波も三陸海岸に被害をもたらし、多くの犠牲者を出した。近年では2004年のM.9.1のスマトラ沖地震による津波は最大50mの高さが観測され、犠牲者は数カ国230,000人にも及んでいる。

このように事例が多く残されているにもかかわらず「想定外」という事は言えない。まして原発にいたってはその怖さはチェルノブイリやスリーマイル島の事例が物語って、いかに危機に対処するかの事例があったではないか。そこにもまた「想定外」で逃げられるのか。

大地震と津波の怖さを最も知っているはずの日本、唯一の原爆被爆経験の日本、どちらも日本こそこれらに対する危機管理の先生となりうる立場ではないか。然るに起きてみれば、津波の教訓は陳腐化されたのか、かつて高台に町造りをした経験は忘れ去られたのか、単に過去の繰り返しとなっている。非難警告いや勧告の強制力のなさは危機管理のシステムの脆弱さをあらわし、原発に対する国家をも揺るがす重大なプロジェクトが民間に丸投げしていたとは―恥ずかしながら今回の件ではじめて知って愕然とした―原発を有する諸国から比べると何という認識か。とても原爆被爆国とは言えない。

今回の大震災は日本の国民の冷静さが世界中の賞賛の的であったが、反面政治力は恥ずべき姿を世界に知らしめたのである。知り合いの坊さんが言う「これは人災です。命ということを軽んじている。」

皮肉なことに日本の経済における影響力は技術力の高い商品の供給が不可能となり、世界中の産業を停滞させている。今日中国の台頭の陰で、日本の位置付けはまた影が薄くなってきた矢先、また注目の的になったのである。喜ぶべきか悲しむべきか。

唯一日本の功罪の「功」の部分は、核(原発)の脅威が世界をひとつに纏めたこととはこれ以上の皮肉はない。

どこぞのえらい知事さんが言いました「天罰が下った」とは、おそらく言葉は足らなかったことであろうが、物質文明の発達と共に科学技術力の止まる事を知らぬ発展は、地球環境破壊となった。これらは人類が自然を征服するという傲慢な態度が、自然を軽視する事になり、自然に対する敬意と謙虚さが忘れられてきている結果、気がつけば自然の猛威の前にただひれ伏している如き今を思えば「天罰」と言ってもそう目くじらを立てることもなかろう。

それにしても今回の原発問題はエネルギーの問題である。今後は間違いなく原発は衰退し、再生可能エネルギーの発展が考えられるが、この機会に以前から指摘している日本近海のメタンハイドレードの早期開発が重要になるのではないだろうか。

このメタンハイドレードは静岡沖50kmに眠っており、地理的には効率よいが、今後予想されるM9以上の東海沖地震が、海上50kmのガス田にどのような影響があるか当然今から想定した計算をしなくてはならないが。それでも何十年も放射能を放出する事よりまだ考えられる余地はあると思うのだが。


会長の独り言(その五十八)
                          閑話休題