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  虹

今年の梅雨は久しぶりに長く例年は7月20日頃が梅雨明けのところ、今年は7月末になってやっと明けた様である。
雷が鳴り、稲妻が光、大粒の雨が降ると、いよいよ梅雨明け、うっとうしさから開放される兆候と子供の頃から感じている。
それと共に、夕立の後に虹がまた楽しみであったものである。



6月に雨季に入ったタイを訪れた。タイの雨季は日本と違い一日中しとしとと振り続けることはない。散らばっていた黒い雲が集まったなとおもうと、あっという間に大粒の、文字通りバケツをひっくり返した様なありさま。
この南国特有のスコールがたいてい一日一回、30分は覚悟しなくてはならない。極めて男性的で、熱帯の暑い空気をわずかの間だけでも冷やしてくれる。その後には虹が出るのである。
広大なタイの田園地帯を貫く国道をはしっていると、田植えをしている畑、あおあおと育っている畑、刈り入れを済ました畑と、流石三毛作の国であるが、国道がら100m位いしか離れていない畑の中から大きな虹が、正に龍が天空に昇るが如く天に伸びている。日本で見る虹は、遠くの山裾からや、街の上空にみることが多かったが、ここタイでは、正に目の当たりに見ることが出来た。
虹の太さも日本で遠くに見る虹より4・5倍もあろうかと思われるスケールで、筆舌に著しがたい鮮やかな7色の美しさに、ただ感動に心が震えるのである。
日本の郊外で見る虹は「おっ、虹が出てる綺麗だね。」。滝壷に架かる虹を見て「わっ!虹だ、綺麗!」。タイの今回の虹は「わー!!すごい!!虹だ、すごい!!」くらいの表現になろうか。


人類が初めて虹を見た時の驚きや、恐怖はいかばかりであったか想像に難くない。
今でこそ、虹の現象が、「太陽の光が空気の中の、水滴によって屈折、反射されると、水滴がプリズムの役割をする為、光の分解され、複数(7色)の色の帯となる・・・」と知られうるが、古代の人達は神のなせる仕儀と畏敬の念を持ったのであろう。
ウィキペディア百科事典をみると、世界の東西を問わず虹に関わる神話が多く、天然の森羅万象全て神のなせる業で、虹は神界に通じる橋としての概念とか、神の僕である龍や蛇として登場するのが共通しているのがおもしろい。
今日では、虹の美しさを、歌や詩、童話、小説に描かれているが、多くの虹のイメージは、「希望」、「夢」が多いように感じられ、古代の人と違ってロマンチズムが伺える。
人間は文明の発達と共に、知識ばかりが増え、素朴さを失い、自然が造り出す神秘さに、無粋な理屈と計算をもって、素直に感動する事を忘れてしまったかに見える。しかし虹が文学の世界でロマンチックの象徴になっているのはやはり文明なので、感情の多様化という点で、これはこれで素晴らしいことなのである。
地球誕生の時から変わる事ない虹の美しさにタイでであったとき、古代の人が多分そうであったように、この壮大な点に繋がる虹に畏敬の念をおぼえたのであった。



   閑話休題


虹を語る上で忘れてならないのは、虹色の虫である。
虹色と言えば、ヤマトタマムシ(大和玉虫)で、英語では Jewely Beetle という。玉虫も同じ意味である。この翅は金属的に光る緑の二枚の翅の中央が虹色であり、生きた宝石である。
エジプトではスカラベが太陽神の化身として、再生復活の象徴として崇拝されたが、日本では法隆寺の有名な宝物玉虫厨子に多くのタマムシの翅を象嵌加工したのはこの虫が、天界と世俗を結ぶ虹の化身として名誉を与えられたとしても不思議でない   原田珍説   
昔から、これをたんすの中に入れておけばお金がたまるともいいつたえがあり、これも神だのみで、スカラベ信仰とまでいかないが良く似たものである。世の東西を問わず虫の持つ神秘さは尊く感じられ、神の化身或いは僕(しもべ)として大切に扱われたのかもしれない。


このヤマトタマムシはニジイロタマムシとは命名されなかったが、オーストラリア大陸には、ありがたくニジイロクワガタと命名された身体全体が虹色の金属的に光るクワガタムシが生息しており、虫屋垂涎の虫となっている。女性が宝石に目がないのと同じ位、虫屋も又美しい物に目がないのである。

虹とは夢と希望を与える美しい代名詞なのである。


小生もまた虹のかなたの夢を追って、ニジイロクワガタを採ってみたい・・・・・




会長の独り言(その三十)
                          閑話休題