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  沖縄教科書問題


2007年の暮れが押し迫った頃、先の大戦時の沖縄集団自決をめぐって、高校の教科書から、軍の強制或いは指示によって、集団自決を強いられたという著実を削られ、それが沖縄県民の怒りとなり、教科書審議委員会はあらためて軍による強制の事実記載をする事で決着したようである。


そんな問題がニュースになる3・4日前のこと、筆者が帰宅時のバスの中での事が印象深く心に残っていた。
バスがある停留所にとまり、一人の背丈は170cmはあろうかという紳士が乗り込んできた。身なりは背広に茶のコートをはおった、重役タイプの紳士である。姿勢は背筋がきちっとしているが、しかし杖をついている。発車のアナウンスと同時にバスが動き出すと、大きく揺れた。件の紳士は不自由な足を踏ん張ってはいるが危ない。筆者が座っていた隣の空席に座るように勧めると、大丈夫といってすぐに座ろうとしない。「ご無理をしないで下さい。」と筆者。どうにか座ってくれた。「年寄りと思われたくないのですよ。ところでいくつに見えますか。」最初はどうみても70は1・2歳越えているのではないかと思ったが、それでは彼の質問の返事に失礼と思い「65・6歳ですか。」「そうですか」と嬉しそうに「83歳です。」。これには筆者も驚いた。それ程若々しく、老人臭くなく本当にまだ現役の重役位にしか見えない。「最近の若い人達は、優先席にだって座っており席を譲ろうとしないのが多いね、だらしない人たちが多いね。」件の紳士が筆者を若い人達の仲間に入れないでもらいたいと願ったものである。
話は足に及んだ、「私は海軍で沖縄戦に行った際、被弾し、お陰で内地に送還され命を永らえました。あの当時沖縄は米軍が上陸し、火災放射器で民間人を焼き殺していったのです。女や子供が多かった。捕虜にすると大変なので焼き殺したようなものだよ、ひどいものだった。軍隊では、焼き殺されるより自決する事を進めたわけよ。その為手りゅう弾を配ってたんだ。
黒人が残虐だったね。日本人は路に倒れている人を敵でも病院につれていくが、インド人などは倒れた人の歯を切り取って行った位だ。その点日本人はやさしい。日本は正義心が強くアジアを救ったのだ。」。この人にとって戦争は記憶の中でいまだ終わっていないのだろうか。
この人が召集されたのはおそらく19歳くらいの時で、敗戦の色濃くなった終盤の強制学徒出陣であったであろう。この戦いもアジアの西欧列強の植民地からの開放で義戦であると洗脳され、欧米は鬼畜である野蛮な民族と教えられ、未だにその教えがインプットされたままであるかのようである。歳を重ねると昨日のことは忘れるのには、いよいよ記憶力が落ち、ボケが始まったかなと思っても、不思議に果敢であった高校時代、大学時代の事は忘れず甦ってくるのは筆者だけではあるまい。件の紳士も青春時代、戦争という異常な世界に教育され、戦闘の中で被弾し、脚が今日まで不自由さが残るくらいの強烈痛みを負った経験は、沖縄住民の犠牲を目の当たりにし、心に大きな痛みとなって忘れようとしても、決して忘れぬことのできない記憶となっているのであろう。
この実体験が、最近新聞紙上やテレビに取り上げられる、アフリカの民族闘争、政治闘争のニュースを目にし、テロと虐殺記事えお件の人が目にしたとすると、黒人やインド人の様な有色人種は残虐な人種として、沖縄戦にみた黒人兵に結びつき、再びあの日の記憶が呼び起こしたとしても不思議でないかもしれない。無論これは大変な偏見で、ホロスコートにみる、ロシア人や、ナチスの白人、或いは日本軍が、中国や東南アジアで戦時中行った悲惨な行為が、思い起こされ、人種を問わず、戦争が如何に人間を狂気にさせると言う事を物語るものである。不幸にも彼の人は戦争教育の犠牲者であるばかりでなく、戦争という狂気が作り上げた、人種偏見が記憶の中に残されたのではないかとおもい、胸が締め付けられる思いであった。
彼の人が言っていた、軍による集団自決の命令、或いは示唆は実際沖縄戦を経験した軍人、沖縄県民の多くの人が証人になっており、今回のようにこの事実を教科書から抹殺することは、この日本軍の汚点を否定するものと同じ意味で、戦争の恐ろしさを忘れさせようと写っても不思議でない。
なんで、今日原爆の悲惨さを訴え、核廃絶に声を大にしているのか、これと同じに沖縄の集団自決も悲しい事実であり、くさいものに蓋をするが如き歴史の闇へ葬ってならず、平和の尊さを語り続ける上にも大切なことなのである。
「歴史は繰り返す」という、人間は愚かなもので、都合の悪い事はすぐ忘れられないように出来ている。いまや忘れ去ろうとしている、人類の悲劇の記録を風化させてはならないのである。
二度と過ちを犯したくないものである、少なくとも日本だけでも。


戦争には大儀などないのである。


彼の人とは「いつまでもお元気に。」と分かれた、2区間の思い出であった。


会長の独り言(その三十三)
                           閑話休題