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めまいの花火

86日朝、広島に原爆が投下された日です。バスを待つ815分有線放送で犠牲者の鎮魂と世界平和を祈念しての黙祷の儀式がありました。1分間の黙祷です。今年は特にある感慨を持って黙祷しました。

閑話休題

83日、仕事の関係で新潟県長岡の花火大会を見る機会を得ました。長岡の駅に着くと人、人の波で、熱気でむんむん、当日の猛暑以上にこの熱気を感じ、先ずはめまいしそうでした。タクシーは果てしなく並んでおり、何時乗れることやら集合時間が心配で、やむなくバスで行くことにしました。ところが道路も会場に向かう人の行列で思うように進みません。会場は最上川の河川敷の両岸です。この川の手前の会場まで、1.5km位でしょうか、

対岸の会場には橋を渡って行きます。待ち合わせ会場は対岸にありますが、橋から見る両岸の会場には人で埋め尽くされ、何百万人の人のようで、新潟県中の人が集まったのではないかと思う程の人、これにもめまいを覚えます。

7時に打ち上げの始まりです。最初の幕開けは渡ってきた長生橋にかかるナイアガラから始まります、打ち上げ場所はこの長生橋と大手大橋との間です。我々の会場は正に打ち上げ場所のすぐ川沿のビルの屋上です。屋上はテーブルが並べられ、人を詰めるだけ詰めたようで、此処も満杯。弁当とビールを楽しみながら、目の前に開花する花火を楽しめます。長岡の花火は3尺玉で有名になりましたが、次から次ぎへ打ち上げられる尺玉や、2尺玉の迫力はすさまじく、夜空を昼間のように輝かせ、足元からと腹にビリビリ響く振動を実感できるのです。尺玉は300mの高さで250mの直径に開きます、2尺玉は400mの高さで450mに開くようです。この大きさを目の当たりにすると、浮世の悩みもいっぺんにすっ飛びます。いったい3尺玉はどの位かと言うと、600mの高さで650mに開くとの事で、其の大きさは想像できません。

各花火にはスポンサーが付き、会場内にアナウンスされます、それぞれの思いや願いを、花火のデザインにこめられて、色々な形状の花火が打ち上げられます。色は写真で見ることがあってもすぐ目の前にすることはめったに無く、闇夜に七色の花が咲いて、それが消えゆくときは、オーロラを見るようであったり、宇宙の銀河系の星や、星雲を見るようでなんとも幻想的であります。

会場からは大きな拍手が起こりますが、花火の打ち上げの音と、バチバチと弾ける音に消されます。

7時から9時まで殆んど休み無く打ち上げられる様々な花火は1万発です。いよいよクライマックスです、長生橋の向こう側即ち通常の打ち上げ場所から遥か遠くの対岸に600mの長さのナイアガラ瀑布と3尺玉の打ち上げです。あっという間に光の流れ落ちるナイアガラが表れます。煙が流れますがこれも又、瀑布の水しぶきのカーテンの様です。3・4分は楽しめたでしょうか、消える前に3尺玉が上がります、遠いところなので全身に響く振動はありませんが、空を独り占めする大華が開きます。大きな大輪の中に小さな紫色の花が開きます。ただただため息出るばかり。めまいにも似た感動に体が震えるのです。最後は100発の大玉が300m位のワイドスクリーンに連発して上がります。夜空が昼間の明るさより、一層眩しい光の花にこれを演出した花火師への畏敬の念を禁じえません。

拍手も忘れ、我を忘れる瞬間にこの夜の幸せを感じるのです。余韻を大切に会場を後にしました。

なぜ、長岡の花火なのでしょうか。長岡市の観光案内を開いてみます。花火の歴史は1600年オランダ人によってもたらせられたようです。1840年(天保11年)には長岡藩10代牧野忠雅公の時代に川越藩移封の命が下ったが、1841年にこの命が沙汰止みとなり、嬉しかったとみえ、「合図」の花火を挙げたのが始まりのようです。其の歳に「草化火(花火)興業」がおこって、色々な花火が開発され楽しむようになったようです。
本格的には179年(明治12年)千手町八幡祭りに遊郭関係者が350発を打ち上げ、花火大会の草分けとなったとあります。
1894年(明治27年)には、ニューオリンズでアメリカ独立記念日を記念して、長岡花火を打ち上げ高い評価を得たという伝統の始まりが此処にあります。明治の後期になり現在のような堤防沿いに桟敷の設置がなされたとあります。大正に入ると3尺玉が登場し発展期を迎えましたが、1938年(昭和13年)戦争への路をたどり始め、終戦まで中止しておりました。194581日、B29、126機による空襲のため、長岡市は一瞬の内に焦土と化し、多くの犠牲者を出しました。終戦後1946年(昭和21年)「長岡復興祭」開催、1947年復興際に花火を復活させ、124881日を「戦災殉難者の慰霊の日」とし、2・3日を花火大会と改め、以後長岡の花火は戦争犠牲者の鎮魂の「まつり」として今日に至っているとのことです。

こうしてみると長岡の花火は古来より喜びの花火とし、技術が花開き、この技術を継承し、今は慰霊と鎮魂の花火が其の精神となっているのです。
河川敷に広がる人の姿はおそらく空襲時には、荒れ狂う猛火を逃れ、河川敷に避難したであろう人たちを思い浮かべ、闇夜に輝く花火の火は、夜空を焦がし、焦土と化した街の紅蓮の炎と重なり、複雑な思いに駆られるのです。いま此処にある、爆音と、七色の光は平和の証となった姿に、何時までも81日の大空襲と戦争の愚かさを記憶にとどめなくてはならないとの思いをしたわけです。原爆記念日が平和の叫びであるように。

長岡花火写真集


会長の独り言(その五十四)
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